■ 福音メッセージ ■
■ 2017/7/16 (日)
[題]
「箴言−
正しすぎてはならない
」
[みことば]
『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』 (箴言17:1)
[ショート・メッセージ]
◆『一切れのかわいたパン』(箴17:1)しかないほど経済的に貧しくても平和に満ちている家庭は、経済的に豊かであっても争いの絶えない家庭とは比べものにならないほど、幸いである、と教えている。経済的な豊かさを追求しすぎて、本末転倒になって情緒的にバランスが崩れてしまった家庭は本当に多い。お金で幸せが買えると思い込んでいるのだ。TVのコマーシャルにだまされるとこうなる◆情緒的にバランスが崩れると思い描いた通りにならない現実に苛立ち、その責任を家族の誰かに押し付けるようになる。そして自分の言うとおりにみんながしないからこうなるんだ、と裁判官の立場に立つようになる。こういうとき客観的に自分を見つめることができなくなるため、エスカレートするようになる。箴言16:18には次のように記されてある。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』高ぶり高慢は、家庭を必ず崩壊すると言うことだ◆伝道者7章6節を見てみましょう。『あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。』自分の思いや考えを家族に押し付けてはならないと注意喚起し、戒めている。自分の思いや考えを押し付けることをモラルハラスメントという。ハラスメントとは嫌がらせ・いじめという意味で、自分の思いを一方的に押し付けることを<モラハラ>いう。客観的に自分を見つめる必要がある。『正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない』のである。
■ 2017/7/9 (日)
[題]
「箴言−
自分の心に光を当てられ、認識と自覚を得よ
」
[みことば]
『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』 (箴言3:5〜7)
[ショート・メッセージ]
◆@「イエスは受肉された神ご自身である」(ロマ10:9)、との信仰告白へと導かれたクリスチャンに対して、聖書を通して神は、どのような導きを与えておられるのだろうか。第一に「信仰を成長させるための<教え>」、第二に「罪を認識させるための<戒め>」、「聖めるための<矯正>」で、それらはすべて「義の訓練としての有益」である(Uテモ3:16)。クリスチャンとされていると言えども、自己中心に生きることを求める古い肉の性質は、肉体に留まっている間ずっと私たちの中に存在しているのである(士3:1、ロマ7:14〜24)◆Aアダムとエバは罪のない存在として創造された(創1:26)が、彼らがサタンである蛇にだまされて罪を犯した瞬間(創3章)、彼らの性質は完全に堕落し、その罪の性質はすべての子孫に受け継がれた(創4章、6章)。そして地上に人が増え広がるにつれ、たましいの創造者であられる神を忘れ、無視し、自分の思い考えに支配されるようになった◆B肉の性質については、聖書の至るところに記されてある。イスラエルの王ダビデは告白した。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩51:5)。ダビデは両親から罪の性質を受け継いでいることを深く自覚した◆C今回から見る〈箴言〉とは、「教訓を与える短いことば」という意味だ。箴言を学ぶことを通して、自分の心に光を当てられ、認識させられ、自覚を得よう。そうしなければ、罪の力によって大切なものが崩壊される。
■ 2017/7/2 (日)
[題]
「イエスに出会った女たち−
カナン人の女
」
[みことば]
『しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』 (マタイ15:27)
[ショート・メッセージ]
◆地上生涯で一度だけ、イエス様は異邦人の地ツロとシドンの地方に行かれた。娘の病のために苦悩している一人の女に会うためであった。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです』(22)。その女はイエス様のことを『ダビデの子よ』と呼んだ。イエス様が、旧約聖書で預言されていた救い主であるという知識と信仰をすでに持っていたのだ。さらにその娘は人間的レベルでは癒しようのない病の中にあったのである◆女は必死に主に懇願し叫ぶが、イエス様は一言もお答えにならなかった。叫び続け女の声に弟子たちが困惑していると、イエス様は女に言われた。「わたしはまずイスラエルの民に<神の国の福音>を知らせに来たのである」(24)。すると女はなおもしつこくイエス様に助けを願った。するとイエス様は今度は、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」(26)。それでも女は諦めることなく、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27)◆『そのとおりです』のことばに表れた女の謙遜と、娘のいやしのために諦めずにしつこくイエス様に懇願し続けた女にイエス様は言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです』(28)。その瞬間、女の娘は癒されたのであった◆私たちもまた、イエス様から目を離さずにいよう(ヘブル12:2)。目を離すとき、事態はますます悪くなる。
■ 2017/6/25 (日)
[題]
「イエスに出会った女たち−
姦淫の現場で捕まえられた女
」
[みことば]
『彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」』 (ヨハネ8:11)
[ショート・メッセージ]
◆イエス様が朝早くエルサレム神殿の庭で民衆に教えておられると、律法学者とパリサイ人がひとりの女を連れて来て真ん中に置いてイエス様に言った。「この女は姦淫の現場で捕まえられた。モーセは律法の中で、こういう女は石打ちにしなければならないと命じているが、どうしますか」。彼らはイエス様を告発する理由づくりのために、この女を利用したのであった。しかしイエス様は身をかがめて指で地面に何かを書いておられた。宗教指導者たちが問い続けてやめなかったのでイエス様は身を起こして彼らに言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げるがよい」。イエス様は、もう一度身をかがめられた◆それを聞くと彼らは、年長者たちから始めてひとりひとりその場を去って行った。イエス様がひとりその場に残り、女もそのままそこにいた。イエス様は身を起こして女に言った。「あなたを罪に定めようとしたあの人たちは今どこにいますか」。女は言った。「だれもいません」。そこでイエス様は女に言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはいけません」◆世の光であられるイエス様の弟子となり、イエス様に従い、イエス様と行動を共にする以外に、罪を犯さない人生を生きることはできない。この女もまた、イエス様によって罪の奴隷状態から解放され、救われたのである。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』(マタイ16:24)
■ 2017/6/18 (日)
[題]
「イエスに出会った女たち−
サマリヤの女
」
[みことば]
『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 (ヨハネ4:14)
[ショート・メッセージ]
◆イエス様が、ヨハネ3章でニコデモに示された『水』(ヨハ3:5)が、神のことばを指すことが、サマリヤの女との会話の中で解き明かされる。パリサイ派の教師であったニコデモはユダヤ教の戒めを実践することの幸いを人々に教えていたが、自分が御国に入る確信がなかった。それで、夜人目を忍んでこっそりと、イエス様に教えを乞うため来たのだった。そのニコデモにイエス様は、『新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』(3)と教えられ、しかもその新生の奇跡は『水と御霊』(5)よらなければならない、と諭されたのである。では『水』とは何か◆4章に入るとイエス様は、サマリヤの町の共用井戸の端で、人目を避けて生きるひとりの不憫な女を待っていた。女が水汲みに来ると、イエス様は女に飲み水を求めた。怪訝な顔をする女に、「わたしが誰であるかを知ったならあなたのほうから求め、わたしはあなたに生ける水を与える」、と話された。この水を飲んでもすぐに渇きが来るだろうが、わたしが与える水は、飲む者のうちで泉(井戸)となり、永遠のいのちへの水が湧き続ける」(13〜14)と示された◆「この水」とは世の人の教えのことで、「わたしが与える水」とは霊的いのちに導く神のことばのことであった。女はときめき、その生ける水を求めた。するとイエス様は女に言われた。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊のいのちによって礼拝しなければならない」(24)と教えられた。「新生」とは、聖書のことばを聖霊によって解き明かされ、霊的いのちを受けることに他ならない。
■ 2017/6/11 (日)
[題]
「イエスに出会った女たち−
ベタニヤ村のマルタとマリヤ
」
[みことば]
『彼女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。』 (ルカ10:39)
[ショート・メッセージ]
◆イエス様がベタニヤ村に入られると、姉のマルタがイエス様と弟子たちを喜んで家に迎え入れた(ルカ10:38)。姉のマルタはさっそくもてなしのための料理作りを始めた。旅の疲れを癒してもらおうと、大量の食事作りに精を出した。手伝ってもらおうと妹のマリヤを捜すと、『主の足もとにすわって、みことばに聞き入って』いた(同39)。「まあ、マリヤったら何も手伝おうとしないで、いい気なもんだわ」。マルタは自分だけに食事の準備をさせているマリヤにイライラし始めた◆それでイエス様に愚痴をこぼして言った。『主よ。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください』と(40)。そこでイエス様はマルタに答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』(41〜42)◆ここで主は、私たちに何を優先すべきかを教えておられる。すなわち、「永遠のいのち(霊的いのち)」を受けるために必要なことは何かということだ。イエス様は霊的いのちを与えるために世に来られた。なぜなら、今の天と地は、罪に汚染されているがゆえに、『焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされ』(Uペテ3:10)、『神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地』(同13)が誕生することが定められているからだ。永遠のいのちがなければそこに移されることができないのである。
■ 2017/6/4 (日)
[題]
「十字架上の7つのことば−
昼12時から3時間に語られたことば
」
[みことば]
『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』 (マタイ27:46)
[ショート・メッセージ]
◆十字架上で語られたイエス様のことばのうち3つは午前9時〜昼12時の3時間に語れたものだった。残り4つはそれ以降夕方3時までに語られたものであった。C「エリ、エリ、レマ、サバクダニ…」、D「わたしは渇く」、E「完了した」、F「わが霊を御手にゆだねます」である◆C『エリ、エリ、レマ、サバクダニ…』とは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)という意味である。このときだけイエス様は「父よ」と呼びかけることはなさらず、「わが神」と呼びかけられた。罪人の代表として立たれ、<怒りの盃>すなわち神のさばきを一身に受けられ、悔い改める者への永遠の赦しが完成するために、永遠に聖いご自分のからだを、完全ないけにえとして、<真実捧げてくださった瞬間>であった。D『わたしは渇く』(ヨハ19:28)は出血多量で、のどの渇きを正直にことばに表わされた瞬間であり、E『完了した』(ヨハ19:30)はご自分に与えられたご使命を完遂されたことばせある。そして最後に、F『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23:46)と言われた。息を引き取られる直前の、意識が遠のくときに語られたおことばであった◆へびに化身したサタンによって、取り返しのつかない事態となった人間の上に、神は永遠の解決を成就してくださったのだ。人間の力では成し得ない永遠の救いが、このようにして神のあわれみとして完成された。人間よ、目を覚ませ。
■ 2017/5/28 (日)
[題]
「十字架上の7つのことば−
女の方。そこに、あなたの息子がいます
」
[みことば]
『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。』 (ピレモン16)
[ショート・メッセージ]
◆イエス様の十字架のそばに四人の女が立っていた(ヨハ19:25)。その中にイエスの母マリヤがいた。イエスは、母と、そばに立っていた愛する弟子とを見て、マリヤに、「女の方。そこにあなたの息子がいます」と言われ、それからその弟子ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」と言われた。母マリヤを弟子ヨハネに託したのである。血縁による家族関係は罪に汚染された地上に限定されるが、それよりもはるかにすばらしい<神の家族関係>があることをイエス様は明らかにしてくださった。これはただの宗教グループによる別の人間関係ではない。永遠のいのち、すなわち霊的いのちによる新しい家族関係である◆かつてイエス様はサマリヤの女に言われた。『真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』(ヨハ4:23〜24)。聖霊が降臨されたことによって<霊的ないのちの交わりによる新しい神の家族関係>がスタートすると明らかにされた瞬間であった。そしてその時が来ると話されたのである◆イエス様の<十字架の死>に続く<復活>、そしてその後の<昇天><着座>によって救いが完成し、アダムとエバからの人類の歴史の中には存在し得なかった、霊的いのちによる神の家族の誕生が、ここで明言されたのだった。
■ 2017/5/20 (日)
[題]
「十字架上の7つのことば−
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます
」
[みことば]
『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』 (ルカの福音書23:43)
[ショート・メッセージ]
◆ゴルゴタの処刑場に三本の十字架が立てられ、イエス様を真ん中に二人の犯罪人がかけられた。犯罪人は二人ともイエス様をののしっていたが、しばらくして一人の犯罪人がもう一人の犯罪人をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ』(ルカ23:40〜41)。そしてイエス様に言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』(同42)。このあと数時間で死を迎える運命にあった彼は、同じ十字架にかけられているイエス様のおことばとその態度に触れながら、自分とイエス様との違いをまざまざと見せつけられた。人生の終わりに彼は自分の罪深さを正直に告白し、イエス様が人間以上の存在であられるという信仰を言い表し、イエス様の前に人生の重荷を下ろした。するとイエス様は彼をいとおしんで言われた。『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』。パラダイスとは、分かりやすく言うと<天の御国>だ◆神は待っておられる。自分の罪深さを正直に告白することと、イエス様が約束されていた救い主であられるという信仰を、言い表すことを。
■ 2017/5/14 (日)
[題]
「十字架上の7つのことば−
「父よ彼らをお赦しください」
」
[みことば]
『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』 (ルカ23:34)
[ショート・メッセージ]
◆イエス様の十字架上の七つのことばは次のとおり。@ルカ23:34「父よ彼らをお赦しください」。Aルカ23:43「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」。Bヨハネ19:26-27「女の方そこにあなたの息子がいます」。Cマタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。Dヨハネ19:28「わたしは渇く」。Eヨハネ19:30「完了した」。Fルカ23:46「父よ。わが霊をゆだねます」◆今回は最初のことばを聖書の中に調べる。このことばの中に『お赦しください』とあるが、「わたしに免じて」という意味が隠されてある。ところで、罪人が受けるべき罪の呪いとは何か。それは神との断絶である。目を開き、耳を開いて、このことを認識しなければならない。もしも永遠に神と断絶する世界に落ちるとしたなら、この世に生まれて来なかった方がよかったのだ(マタ26:24)。人が地上で味わうどのような苦しみも、この苦しみと比べることはできないほどのものである。その呪いを「わたしが受けますので」とイエス様は言われた。「人がもし自分の罪を認めて心から悔い改めるなら、彼らの罪をお赦しください」という切なる願いとともに。御父と永遠に一つであられるイエス様(ヨハ10:30)の、思い告白であった。すべての人が神から愛され続けている。
■ 2017/5/7 (日)
[題]
「質疑応答−
アブラハムとイサク
」
[みことば]
『ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。』 (創世記22:9)
[ショート・メッセージ]
◆Q1:創世記22章9節の記事が現実離れしているようで信じがたい。青年イサクの従順は本当だったのか?◆A1:そのその人の在り様(ありよう)は幼児期の家庭環境でほぼ決定される。真実な生き方をしている両親によって育てられた人は真実な生き方を求め、二心な生き方の両親のもとで育てられた人はお手本通りの生き方をまねして生きるようになる。親から虐待された人はいつの間にかわが子を虐待するようになる。理想を掲げても現実は模範者となった人を真似た在り様となる。もちろん例外の人も存在するであろうが、数パーセントに過ぎないと思われる。アブラハムの幼児期は明記されてはいないが、ハランの地を出た75歳から死に至るまでの第二の人生(創12:4)、すなわち創造者なる神から学び訓練された生き方が良い影響となり、彼アブラハムを根底から変えていったと思われる。イサクの模範者は新しく変えられたアブラハムであり、神よって変えられた両親から受けた信仰教育による影響が大だった。両親を通して養われたイサクの信仰は、神を恐れ、徹底して自制し、神のことばには絶対服従、神の喜びを喜びとする生きた信仰であったと思われる。それゆえ、尊敬する父にすべてを委ね、信頼しきっていたのであろう(同7〜10)。
■ 2017/4/30 (日)
[題]
「使徒の働き−
預言の賜物の目的
」
[みことば]
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。…主の大いなる輝かしい日が来る前に、…主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』 (使徒2:17〜18)
[ショート・メッセージ]
◆<預言>とは予知能力のことではない。預言とは<神の啓示を受け取る霊的賜物>のことである。神の啓示とは<神のみが明らかにされる霊的真理>のことだ。この神の啓示を受け取る霊的賜物は聖霊が注がれた真のクリスチャンだけに『注がれた』(使2:17)。『偽教師・偽預言者』(Uペテ2:1、Uヨハ4:1)はこの賜物を持たない(Uヨハ4:3)◆さらにこの『預言の賜物』(Tコリ13:8)は初代教会時代のある期間にのみ、限定的に与えられた。ある期間とは『完全なもの』が現れるまでの期間である(同10)。完全なものとは<聖書>のことである。当時は旧約聖書(ヘブ8:7)だけが存在していたが、それだけでは『欠けがあるとして』(同8)、主は次のように言われた。『見よ。日が来る。…新しい契約を結ぶ日が』。この『新しい契約』こそが<新約聖書>である。そしてパウロが『完全なもの』(Tコリ13:10)と呼んでいたのは、この新約聖書のことである。すなわち旧約聖書と新約聖書が一つとなって、神のことばである聖書が完全なものとなったのである◆この新約聖書が成文化されるために、神は<預言>の賜物を一時的に、初代教会の真のクリスチャンたちに備えてくださったのだ。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝3:11)。
■ 2017/4/23 (日)
[題]
「使徒の働き−
異言が用いられた
」
[みことば]
『この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれの自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。』 (使徒2:6)
[ショート・メッセージ]
◆『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた』(使2:1)。五旬節の日とは、『安息日の翌日』から数えて(レビ23:15)、『七回目の安息日の翌日までの五十日』目のことだ(同16)。すなわちイエス様が復活された日曜日から50日目の日曜日のこと。その日、約束通り聖霊が降臨された。『大ぜいの人々が集』まるほどの『物音が起こ』った(6)。すなわち激しい風が吹くような<響き>(使2:2)と、『炎のような分かれた舌』(同3)という<視覚に訴えるもの>が現れた。『すると、みなが聖霊に満たされ』(4)、『御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした』(4)。これが異言である。異言とは聞く人が理解できる明確なことばで、福音が宣べ伝えられることであって、恍惚にひたることではない◆『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい』(マコ16:15)の成就であり。『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは…わたしの証人とな』る(使1:8)。『話すのは…あなたがたの父の御霊』だとの預言の成就であった(マタ10:20)。しかも異言は永久に『やみます』とも預言されていた(Tコリ13:8)。福音の成文化である<新約聖書>が『完全なもの』(同10)として現れたら、即刻不要なものとなるのだ。
■ 2017/4/16 (日)
[題]
「使徒の働き−
聖霊のバプテスマ
」
[みことば]
『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』 (イザヤ59:20)
[ショート・メッセージ]
◆天に帰られる直前、イエス様は弟子たちに念を押して言われた。『わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです』(使1:4〜5)。父の約束とは神なる聖霊が遣わされることで(ヨハ14:16)、聖霊のバプテスマとは真理の御霊(聖霊)が全世界を覆うことを意味している◆イエス様が天に帰られ父の右の座に着座されることによって贖いが成し遂げらたのであった。『御子は…罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました』(ヘブ1:3)。『わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主(聖霊)をあなたがたのところに遣わします』(ヨハ16:7)。これが御父の、永遠の救いのご計画であった。◆神なる聖霊の助けによらなければ、だれもみことばの奥義を知ることはできない。その奥義を受け取らないまま聖書を読むなら、それは自己解釈を続けることであり危険なことだ。聖霊はだれのとことに来るのか。『そむきの罪を悔い改める者のところに来る』(イザヤ59:20)。自分のうちにある罪を認め、神に立ち返ることを願う者のところに来る。
■ 2017/4/9 (日)
[題]
「使徒の働き−
聖霊行伝
」
[みことば]
『イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 (マルコ 16:15)
[ショート・メッセージ]
◆新約聖書は27巻だ。初めの4つは福音書で、イエス様のご生涯とその教えが明らかにされている。その次が歴史書の使徒の働きで、「聖霊行伝」とも言われる。教会の交わりの中心におられる聖霊なる神の働きによって、みことばの奥義が細部に至るまで<解き明かされ>、福音の約束が全世界に<宣べ伝えられ>、「キリストのからだなる教会」が<建て上げられ>続けて来た◆さらにその次に、21巻の手紙がまとめられている。この目的は全て異端対策である。教会誕生の初めから、偽教師・偽預言者が各地で出現し、現代に至っている。彼らによって「キリストのからだなる教会」の交わりは混乱し、その成長が阻まれて来た。偽教師による異端の教えは、教会の信者たちの口から出て来た。みことばの自己解釈による。互いに注意し合う必要がある。聖霊なる神によって、二千年の間、明らかにされて来た「みことばの奥義」を彼らは軽んじた◆そして新約聖書の最後は、預言書であるヨハネの黙示録だ。これは、「新生した真のクリスチャンたち」が天に引き上げられたあとの、こ世の最後のありさまを予告している。この最後の時代、すなわち患難時代に突入する前に、福音をしっかりと伝え、証しなければならない(マコ16:15)。
■ 2017/4/2 (日)
[題]
「預言者たち−
三人の預言者
」
[みことば]
『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』 (イザヤ6:8)
[ショート・メッセージ]
◆イザヤは、ウジヤ王が死んだ年(BC742)に預言者として召された。そのとき彼は『(天の)王座に座しておられる主を見た』(イザ6:1)。すると彼は『もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、…しかも万軍の主である王をこの目で見たのだから』(同5)と言って主を恐れた。彼が震えていると、御使いが祭壇の上から燃えさかる炭(いけにえの骨)を持って来て彼の口に触れて言った。『見よ。…あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた』(7)。そのとき彼は「だれがわれわれのために行くだろう」と言われる主の声を聞き、『ここに私がおります。私を遣わしてください』(8)と願い出て、預言者の働きに就いた◆エレミヤが預言者に召されたのはBC627だった(エレ1:2)。彼は偽預言者のように見られ、ののしられ、預言者職の厳しさを体験し、預言者の心理を最もよく味わった(エレ20:2)。彼はバビロン捕囚を預言し、それが70年であることを明らかにした(同25:8〜12)◆ダニエルは第一回バビロン捕囚の時(BC605)、捕囚民の一人として連行された(ダニ1:1)。彼はバビロン捕囚が70年であることを『預言者エレミヤにあった主のことば』(9:2)から知った◆預言者は神体験を導かれ、命がけで神に仕え、神のことばを民に、まっすぐに届けなければならなかった。
■ 2017/3/26 (日)
[題]
「預言者たち−
まず、神のことばに従いなさい
」
[みことば]
『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない』 (T列王記17:14)
[ショート・メッセージ]
◆エリヤは「主こそ神である」という意味。彼は北イスラエルの預言者でした。神はアハブ王のところにエリヤを遣わしました。『…イスラエルの神、主は生きておられる。…ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう』(T列王17:1)。そして神はそのききんの間エリヤを養われます。最初はカラスによって。『彼は行って、主のことばのとおりにした。…ケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると…夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。しかし、しばらくすると、その川がかれた』(同6〜7)◆次はひとりのやもめを通して(9)。エリヤはやもめに水とパンを求めますが、やもめは言います。『…ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、…私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです』(12)。するとエリヤは彼女に言います。『…あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない』(13〜14)。<まず>神のご命令に従いなさい。そうすればあなたの必要は満たされます、と言うのです。やもめはこれに従い、ききんの間、神の奇跡の中で生き延びました。
■ 2017/3/19 (日)
[題]
「預言者たち−
矯正されたヨナ
」
[みことば]
『ヨナは彼らに言った。「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」』 (ヨナ1:12)
[ショート・メッセージ]
◆神が預言者たちに要求することは、私心をさしはさまないことである。大きな魚に飲み込まれ救助された預言者ヨナは、私心をさしはさんだため、神からの矯正を受けなければならなかった。神に絶対服従しない限り、神の代弁者にはなれないからだ◆ヨナはニネベに行くことを命じられた時(ヨナ1:1)、主の御顔を避けた。罪ゆえに内部崩壊し弱体化していたアッシリヤ帝国が悔い改めて回復することを、ヨナは望まなかったからだ。自分の国イスラエルを滅ぼそうと攻撃してくるアッシリヤに神のことばを届け、救いの手を伸べることは、イスラエル人としてはしてはならないことだと思う私心があったからだ。だからヨナは神の御顔を避けて逃げ回ったのである◆しかしヨナは神の愛を教えられる。『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』(ヨナ4:10〜11)◆ヨナと同じ失敗をする弱さは、私たちの中にもある。だからこそ私たちもみことばを学び、絶えず軌道修正されなければならないのである。
■ 2017/3/12 (日)
[題]
「預言者たち−
神からキリストに関することばを預かったイザヤ
」
[みことば]
『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。』 (イザヤ53:10)
[ショート・メッセージ]
◆預言者とは、第一義的には「神の言葉を預かる者」である。しかし旧約時代にも新約時代にも、真の預言者を模倣する職業的預言者(偽預言者)も数多く存在していた。真の預言者たちは聖書記者(約40名)であった。彼らによって書き記されたものは、聖霊によって、聖書66巻にまとめられた。聖書を通してのみ、人は神の実存を知り、神と人との唯一の仲介者、受肉されたキリストを知る◆第一回目の今回は、イザヤ書53章から具体的に真の預言を調べる。『主の御腕』(イザ53:1)とは「神の御力」のことで、『彼』(同2)とは「キリスト」のこと。すなわち、主のご計画は『彼』と呼ばれる者(キリスト)を通して実現すると言うことだ。彼(キリスト)は、神の目にはエッサイの『若枝(ダビデ)』のように誕生し成長して行くが、人の目には『砂漠の地から出る根のように…見とれるような姿も…慕うような見ばえも』なく(2)、普通の姿で現れ過ごされる。ただ違うところは、『人が顔をそむけるほどさげすまれ』ること(3)。この『人』とは、キリストをねたむ「宗教指導者たち」を指す。『イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した』(マタ26:3〜4)。しかしこうしてキリストが死に追いやられるのは、御父のみこころであった(イザ53:10)。
■ 2017/3/5 (日)
[題]
「神のご性質−
愛なる神
」
[みことば]
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』 (Tヨハ4:10)
[ショート・メッセージ]
◆神の愛は、聖と義に裏付けされた愛である。そこには、打算なし、偽りなし、かけ引きなし、えこひいきもない。そこあるのは、自滅に向かう罪人へのあわれみである。『私たちが滅びうせなかっ、たのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。』(哀3:22)◆神が愛の対象として創造された人間は、サタンの罠にはまり、サタンの支配下に入り、神に敵対する存在となった。そんな人間をサタンの手より救出するために、神は救いのご計画を立てられた。そのため、神は秩序と調和に基づいて人類の歴史を導かれた。そしてその時が来た。御子が世に現れたのである。御子は十字架の道を歩まれ、ご自分のからだで贖いを成就された。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハ3:16)◆御子を通して現わされた神の愛を、聖書を通して知り、信じ、人生をゆだねる者は幸いである。『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』(同16)◆神はあなたをも、招いておられます(マタ11:28)。
■ 2017/2/26 (日)
[題]
「神のご性質−
聖なる神
」
[みことば]
『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』 (Tペテ1:16)
[ショート・メッセージ]
◆聖なる神とは、「サタンから出た罪汚れ欺きと完全分離」されているお方であることを意味している。神の救いとは、人間をサタンから引き離し、サタンとの関係を完全に断ち切ることである。ゆえに救われた者は『聖徒』(ロマ8:27)と呼ばれ、『聖霊』(ヨハ14:26)に教えられ導かれる。聖であられる神は、サタンに汚されたこの宇宙を火で燃やし(Uペテ3:7)、響きをたてて消し(同10)、神の約束に基づいて『新しい天と新しい地』(同13)を創造してくださる。聖なる神は私たちを天に迎え入れてくださるためのご計画を立て(創3:15)、御子を世に遣わし、御子の聖なるからだを十字架に付けることによって罪人を贖うための代価とされ、永遠の救いのご計画を完璧に成就してくださった。御子によって成し遂げられた救いを信じ受け入れて自分の人生をゆだねる以外に、聖とされる道はどこにもない(ヨハ14:6)。御子が世に来られた使命を全うされて天に帰られたのは、聖徒を迎え入れる準備のためであり、聖徒を迎え入れる場所ができたら、再び来て、からだなる集会に属している者を迎えに来てくださる(同2〜3)。だからこそ主は命じられる。『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』(Tペテ1:16)。
■ 2017/2/19 (日)
[題]
「神のご性質−
義なる神
」
[みことば]
『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません』(ガラ5:19〜21)
[ショート・メッセージ]
◆義なる神とは、「人間に対して常に正しい態度を取る」という意味である。すなわち、「罰すべき者は必ず罰し、赦すべき者は必ず赦す」ということで、神には依怙贔屓(えこひいき)はない。ところで、「依怙(エコ)」には自分本位という意味があり、「贔屓(ヒイキ)」には特別に引き立てるという意味がある。そこから、自分勝手に特別扱いすることを「えこひいき」と言うらしい。しかし神の義は完全であり、罰すべき者を意味もなく赦すことはなく、赦すべき者を無意味に罰することもない。すなわち集会・教会に属しているクリスチャンだからと言っても、罰すべきクリスチャンは罰するということだ。『肉の行いは明白であって…不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもので…こんなことをしている者(クリスチャン)たちが神の国を相続することはありません。』(ガラ5:19〜21)◆自分は信仰を告白しバプテスマを受けたのだから大丈夫だ、と油断していてはいけない。『ですから兄弟たちよ。ますます熱心にあなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。』(Uペテ1:10)
■ 2017/2/12 (日)
[題]
「神のご性質−
あわれみ深い神
」
[みことば]
『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。』 (詩篇103:13〜14)
[ショート・メッセージ]
◆聖書を通してご自身を紹介される神が「あわれみ深く」なかったならば、だれ一人として天の御国に迎え入れられる者はなかったでしょう。『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる』(詩103:13)。「神があなたをあわれんでおられます」とお伝えすると、「あわれんでもらわんでもいい」と憤慨する人がいます。コンプレックスの強い人です。自分の弱さ、足りなさ、みじめさを認めたくないし、知られたくない人で、強がって生きている人です。絶体絶命の窮地に立たされると、人はあわれみを乞います●姦淫の現場で捕まえられた女に対して、主イエス様は深くあわれんで言われます。『あなたを罪に定める者はなかったのですか。…わたしもあなたを罪に定めない。(そのためにわたしは天から来たのだ) 行きなさい。(新しい赦された人生をスタートしなさい) 今からは決して(同じ)罪を犯してはなりません』(ヨハネ8:11)。へりくだりなさい。そして神のあわれみの対象として生かされていることを自覚しなさい。神は、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられるのですから。強がって生きる負け犬のような生き方から離れなさい。主なる神はあなたをあわれんでおられる。
■ 2017/2/5 (日)
[題]
「質疑応答−
二つの質問
」
[みことば]
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』 (詩篇119:105)
[ショート・メッセージ]
◆Q1:イエス様が誕生された時に東方から訪ねて来た博士たちは、イエス様誕生からどれくらい経っていたのでしょうか?◆A1:ヘロデ大王が命令した幼児虐殺の年齢から推察しますと、一歳前後ではないかと推察できると思います。ちなみに家畜小屋に礼拝に訪れた、ベツレヘムの羊飼いたちとは一緒になることはなかったと思われます。◆Q2:異端の信者たちを救いに導くことはやはり難しいのでしょうか?◆A2:初代教会当時の異端対策を調べるととても良いと思います。『なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです』(7)。エホバの証人はイエス様を神と認めず、御使いミカエルだと結論付けています。『…よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく』(8)。実とは聖徒のことで、真の救いから離れることは恐いことです。『この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません』(Uヨハネ7〜10)。パチンコ依存症の人をそこから救出することはほぼ不可能に近いです。それと同じように十分な準備をしたとしてもこの上なく難しいです。
■ 2017/1/29 (日)
[題]
「ダニエル書−
何よりも神を愛し証した三人の友
」
[みことば]
『しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』 (ダニエル3:18)
[ショート・メッセージ]
◆バビロニヤ帝国の王ネブカデネザルは、帝国をまとめるために巨大な金の像をつくった(ダニエル3:1)。その高さは60キュビト(22m)で、幅は6キュビト(2.2m)。そしてこの像の奉献式に全国の高官・国民が集められ、王が立てた金の像を拝ませたが、これを拝まない者はただちに火の燃える炉に投げ込まれる、との命令が出た。そしていよいよその奉献式が始まったが、像を拝まないユダヤ人たちがいるの訴えがなされた。ダニエルの3人の友たちであった(12)。王はその報告を聞いて怒り狂い、三人を呼び寄せて言った。『拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。』(15)◆すると三人の友は王に言った。『もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』(16〜18)◆三人の友は、何よりも神を愛し、神を証した。
■ 2017/1/22 (日)
[題]
「ダニエル書−
王の見た夢とその解き明かしを導かれたダニエル
」
[みことば]
『天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。』 (ダニエル2:28)
[ショート・メッセージ]
◆ダニエルは、偶像の前に安置した食べ物や飲み物で身を汚したくない、と宦官の長に願うと(8)、世話役はこの申し出を聞き入れ、十日間、彼らをためしてくれた(ダニ1:14)。その結果世話役は、彼らに野菜を与えることにした(同16)。すると神はこの4人の少年に、善悪を判断する知識と、あらゆる文学を理解し悟る力と、神のみこころを実行する知恵を賜った(17)。特にダニエルには、神の啓示である「幻と夢」とを解く力を与えたのであった◆しばらくしてネブカデネザル王は悪夢にうなされ、バビロン中の知者を集め、王の見た「夢」と「夢の解き明かし」を命じた。すると知者たちは、『どうぞその夢をしもべたちにお話しください』と王に願ったが、王は「私の夢を知らせよ」と繰り返した。知者たちにできないことが分かると(11)、王は怒り狂い、知者たち全員を殺せと命令を出した。その命令を聞いたダニエルは家に帰り、3人の友といっしょに神に祈った◆それからダニエルは、王のもとに、行き「王の見た夢」と「その解き明かし」をすると、王はダニエルの前にひれ伏し贈り物を与え、ダニエルをバビロンの総理大臣の位に就かせた。こうして異教の地バビロンで、ダニエルを通してイスラエル人は神の栄光を現わしたのであった。
■ 2017/1/15 (日)
[題]
「ダニエル書−
信仰に基づいた行動を取ったダニエルたち
」
[みことば]
『ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。』 (ダニエル1:8)
[ショート・メッセージ]
◆近隣諸国の偶像礼拝を導入して、神への信仰を捨てた南ユダ王国を悔い改めへと導くために、神は、当時世界のトップに君臨していた「新バビロニヤ帝国」を用いられた。南ユダ王国の住民を全員をバビロンに捕囚民として拉致させたのである。この『バビロン』(ダニ1:1)はバビロニヤ帝国の首都のこと。ところでバビロン捕囚は計3回に分けて行われた。その第1回バビロン捕囚は、ユダの王エホヤキムといっしょだった(BC605/U歴代誌36:5)◆この時いっしょに連行された者たちの中に、少年ダニエルと3人の友も含まれていた(ダニ1:6)。この少年たちは、『身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者』であった(同4)。ネブカデネザル王は、あとで彼らが帝国に仕えるようにするために、『王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、3年間、彼らを養育すること』にした(5)。しかしダニエルは、『王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った』(8)。彼らは少年ではあったが、信仰に基づいた行動を取ったのであった。
■ 2017/1/8 (日)
[題]
「主に導かれた主のことば−
人間をとる漁師
」
[みことば]
『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」』 (マタイ4:19)
[ショート・メッセージ]
◆主なるイエス様は、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロとその兄弟アンデレに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 福音宣教の働きを始めるためにイエス様は、二人を、「弟子として」召されたのである。召されたというよりも、絶対的主権を持って一方的に「命じられた」のであった。二人は、『すぐに網を捨てて従った』(同20)。捨てなければ、従うことはできない。主に従うために、捨てたのである◆一方、『人間をとる漁師』とは、主イエス様の元に人々を導くことである。、私たちもかつては罪と死の支配者として君臨するサタンの世界に閉じ込められていた。考え方も行動もすべて罪と死に色づけられ、サタンの影響下にあった。その忌まわしい世界から人間を解放し、ご自分の聖く正しい御手の中に招き入れてくださるために、イエス様は人間と同じ姿(ロマ8:3)で、天から遣わされていた。それは肉の思いを捨て、御霊の導きに従って歩む者の中に、「いのちと平安」が満ちあふれるため、そのことによって、死ぬべきからだが神の御前に生きるためであった(同11)◆『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』(同14)
■ 2017/1/1 (日)
[題]
「ルカ1-2章−
ことばは人となって私たちの間に住まわれた
」
[みことば]
『羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話の通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。』 (ルカ2:20)
[ショート・メッセージ]
◆『あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』 (ルカ2:12) 羊飼いたちは話し合った。「さあベツレヘムに行って、主が知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そしてほどなくして、マリヤとヨセフと飼い葉おけに寝ておられる嬰児(みどりご)を捜し当てた。羊飼いたちはこの幼子について御使いから告げられたことをマリヤとヨセフに知らせた。見聞きしたことが全部御使いの話の通りだったため、神をあがめ賛美した(20)◆神は全知であられ、全能であられる。アダムとエバが造られてから四千年、サタンの支配下に墜ちて罪にあやつられ、汚れと快楽と暴虐の闇の世をさまよい続けた人類に、再創造の希望の光を与えるために、神の御子が人となって来られたのだ。その最初の目撃者、証人として選ばれたのが、その昔、ベツレヘムで『羊の番』(Tサムエル16:11)をしていたダビデと同じ、羊飼いたちだった。そしてこの出来事は、『神があらかじめお立てなったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現』(エペソ1:9〜10)したものであった◆使徒ヨハネの証言が聞こえるようだ。『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(ヨハネ1:14)
■ 2016/12/25 (日)
[題]
「ルカ1-2章−
羊飼いたちのための目印
」
[みことば]
『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』 (ルカ2:12)
[ショート・メッセージ]
◆羊飼いたちが野宿で羊たちの群れを見守っていたある夜、御使いが現れて言った。「きょうダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ約束されていた主キリストです。あなたがたは、布にくるまれ、飼い葉おけに寝かされているみどりごを見つけることができます。これが、あなたがたのための目印です。」◆後に使徒ヨハネは証言して言った。「私たちは見たのです。神のことばなるキリストが、人となられて私たちの間に住まわれたからです。」(ヨハネ1:14) この『住まわれた』ということばは、別訳では「仮庵となる」であり、レビ23:34で救い主の誕生が暗示されていたのである。そこには第7の月の15日と記されてある。太陽暦に換算すると、9月だ。秋の季節の初めに羊飼いたちは見たことになる。真冬12月ではない◆そのとき御使いから知らされた目印は、布にくるまっていることと、飼い葉おけに寝かされていること。二つのしるしとも、死を象徴していた。死体に防腐剤として塗る没薬が剥がれ落ちないように布(亜麻布)で巻き、墓に死体を収めるときは石のお棺(石棺)に安置する。イエス様は死によってサタンを滅ぼすために来られたお方(ヘブル2:14)。心より感謝いたします。
■ 2016/12/18 (日)
[題]
「ルカ1-2章−
受肉された神の御子イエスの誕生
」
[みことば]
『…身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』 (マタイ2:5〜7)
[ショート・メッセージ]
◆当時イスラエルを統治していたローマ帝国が行った、徴税・徴兵のための住民登録のために、ヨセフは身重になっているいいなずけの妻マリヤを連れてベツレヘムに急いだ。ところがベツレヘムに到着すると、どこの宿屋も満室だったため、家畜小屋を借りてからだを休めることにした。そうこうしているうちにマリヤは、月が満ちて男子の初子を生んだ。彼らはその子を布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。◆ところでこの土地にいた羊飼いたちが、野宿で羊の群れを見守っていた。すると御使いが現れて、主なる神の栄光が羊飼いたちの回りを照らした。彼らがひどく恐れていると、御使いは言った。「恐れることはない。すばらしい喜びの知らせを届けに来たのだ。きょう、このベツレヘムで、約束されていた救い主がお生まれになった。その子は、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられる。これがあなたがたのためのしるしである。」するとたちまち、その御使いといっしょに数え切れないほどの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。『いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように。』◆御使いたちが去って行くと彼らは、ベツレヘムの町に急ぎ、その出来事を見に行った。すると、布にくるまって飼い葉おけに寝かされているみどりごを捜し当てた。御使いたちの話してくれた通りであった。このようにして神の御子イエス様は、人間の姿を持って、人の世に現れたのである。
■ 2016/12/10 (日)
[題]
「ルカ1-2章−
神のご計画を信じ受け入れるマリヤ
」
[みことば]
『神にとって不可能なことは一つもありません。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」』 (ルカ1:37)
[ショート・メッセージ]
◆『その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。』(ルカ1:26) 「六か月目」とはザカリヤの妻エリサベツがみごもってから(同24)六か月目のことである。また「ガブリエル」とは「神の人」という意味で、神のご計画を知らせる任務が与えられていた。「マリヤ」とはヘブル名では「ミリヤム」と言い、ガリラヤ地方のナザレという町に住む処女であった。処女とは言ってもヨセフという人のいいなずけ(婚約者)がおり、籍を同じくしていたが、ユダヤの習わしでまだ一緒に生活していなかった。ユダヤの国では婚約と同時に入籍するが、一年間は別々に暮らし、結婚後の諸々の準備をしなければならなかった。健全な習わしだ。この一年間に妊娠するならふしだらな女と言われなければならなかった◆『おめでとう、恵まれた方』とガブリエルは言った。イザヤ7章14節で預言されていた救い主をこの世に送り届ける「処女」としてあなたが選ばれた。こわがることはない。あなたは神から使命を受けたのだ、と告げたのであった。「恵み」とは一方的な祝福で、マリヤが願っていたわけではなく、神からの一方的な選びによるのであった。マリヤが戸惑っていると、「聖霊が臨み神の力があなたをおおい、妊娠する」と告げられた。「さらに神にとって不可能なことはない」と告げられると、マリヤはすべてを受け入れ、「おことばどおりこの身になりますように」と言って、神のみこころをそのまま受け入れたのであった。信仰とは神が示された約束を信じ、身をゆだねることである。
■ 2016/12/4 (日)
[題]
「アブラハム−
アブラハムのとりなし
」
[みことば]
『彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。』 (創世記18:32)
[ショート・メッセージ]
◆アブラハムは主の御前にとりなした。甥っ子ロトのために。創世記18章に記録されている出来事だ。ロトはアブラハムと別れて後(創13章)、よこしまで非常な罪人の町ソドムに近づいて行った(同11-13)。ソドムの町はロトにとっては魅惑の墓所であったが、ほどなくして近隣諸国との争いに巻き込まれ、身内の者全員拉致され、財産も奪われた(14章)。この時アブラハムは、とりことなったロト一族を必死で奪還した(同14-16)◆その後、ロト一族が住むソドムが滅ぼされると主から聞いたアブラハムは、愛するロトの命を守るために主にとりなした(18章後半)。『もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。』(同24) すると主は答えた。『もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。』(26) アブラハムは食い下がった。「もし45人だったら、…40人だったら、…30人だったら、…20人だったら、…10人だったら」 『滅ぼすまい。その10人のために。』(32)◆アブラハムは必死になってとりなした。十字架上でのイエス様のとりなしの実物預言であった。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ23:34) 救われる以前私たちは、聖くあわれみ深い主の愛の中で、同じようにとりなされ続けていたのだ。
■ 2016/11/27 (日)
[題]
「質疑応答−
明らかにされたアブラハムの信仰
」
[みことば]
『彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』 (ヘブル11:19)
[ショート・メッセージ]
◆創世記22章の「イサクをささげよ、との神の命令に従ったアブラハム」について、主はヘブル書11:17〜19において、アブラハムの信仰を解き明かされた。その17節に、『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです』とあるが、アブラハムの心をいつも占領していたのは神の御声であった。神の約束によって奇蹟的に生まれたイサクを、彼は私物化せず、神の御手に委ねながら、イサクに語りかけ、イサクと交わり、イサクを訓練し、イサクを育てた。彼にとってイサクは、神から預けられたひとり子であった◆それで、『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい』との主の御声を聞いたとき(創22:2)、彼は猶予せず翌朝すぐに実行に移したのだが(同3)、彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」(11:19)、という信仰を受けていたのだった。このことのゆえにアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになり、彼の信仰の歩みよってイスラエル民族が生まれ、その中からキリストが世に現れた◆彼を通して、『信仰による神のご計画』(Tテモ1:4)は実現し、恵みによる永遠の赦しが、全人類に準備されたのである。
■ 2016/11/13 (日)
[題]
「アブラハム−
主の導きに応答して、神とともにある人生がスタートした
」
[みことば]
『アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけた』 (創世記12:4)
[ショート・メッセージ]
◆イスラエル民族の初めとなったアブラハムの生涯は、『あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』(創12:1)、との主のご命令に従って出かけた瞬間から始まった。ちなみに2節に『そうすれば』とあるが、これは完全分離を命じることばだ。アブラハムの父テラは『昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア24:2)偶像礼拝者であった。主なる神は、偶像礼拝の世界と完全に分離せよ、とアブラハムに命じたのである。◆悔い改め(ハマルティア)ということばには二つの意味がある。一つは方向転換であり、もう一つは神とくびきを負って生きる決断だ。アブラハムはこの二つを事がら実行した。すなわち@偶像礼拝との完全分離、A神のことばに委ねて生きる人生のスタート。神はこのアブラハムをさらに導いて、神に仕える一つのイスラエル民族興されたのであった。そしてこの選ばれし民族から「キリスト」を世に送る救いのご計画(創3:15)を進めていかれたのである。◆神はそれと同じことを、それぞれの時代の中で、生きているすべての人々に、聖書を通して「分け隔てなく」(ガラ2:6)なさっておられる。あなたも、神に選ばれている。耳を傾け、目を見開いて、神の招きを実感してください。
■ 2016/11/13 (日)
[題]
「アブラハム−
神の選民の誕生のために選ばれた
」
[みことば]
『今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』 (創22:12)
[ショート・メッセージ] |